巡礼のおすすめ 長崎への道前代表 本田周司
2012年6月8日、日本二十六聖人列聖百五十周年記念祭がごミサを中心に、日本各地で盛大に執り行われ、それを契機に、カトリック長崎大司教区を中心に関係教区による二十六聖人殉教への道を辿る「ネットワーク」の気運が高まり、時ならずして、各教区からのご協力を得て、早々に、聖人方が歩まれた京都~長崎への長い道の踏査に入られた。
そして、各教区の熱誠溢れる道程(みちのり)の調査・探求の結果、ネットワーク日本二十六聖人長崎への道も設定され、京都・大阪・広島・福岡・長崎の5つの各関連教区の大きなお力により完成。長崎大司教区からのご報告によれば、二百ページに及ぶ立派な巡礼マップ制作のご予定とか、本当におめでとうございます。
複雑な長い巡礼路をここまで追求・達成された皆様方の執念とご努力に、深い敬意を捧げ、厚く御礼を申し上げます。さぞかし大変だったことでしょう。
そもそも巡礼とは、広辞苑によれば、「諸国の聖地・霊場・社寺・仏閣を参拝し回ること」と定義されていますが、四百年前、殉教だけのために辿られた二十六聖人の史実の道は、近代文明の波に押されて、残念ながら現実にはすっかり消滅しており、わずかに残った道も徳川幕府時代の山陽道の整備・大改修に続き21世紀の今は高速道路建設の片隅に押しやられ、辛うじて昔の片鱗を止めているに過ぎない厳しい現実の中、その間を縫うように設定されたこの度の巡礼マップは、大変なご努力の賜物と思います。
そういう意味でも、この巡礼マップのあの道・この道に、そのご苦心の跡があちこちに見受けられ、頭の下がる思いです。よくぞお作り下さいました。二十六聖人方も、きっとお喜びの事と存じます。
さて、[長崎への道]という呼称は、故結城神父様の著[長崎への道]から私が勝手に拝借、その数年後結城神父様から、「自由に使ってよい」とのお許しを頂いた由緒ある標題ですが、この度、「巡礼マップに使用したい」との高見大司教様からご丁重なるお申し出を頂き、僣越ですが、故結城神父様のお許しを頂いたものとして、長崎大司教区にすべてお委ね致しましたので、よろしくお願い申し上げます。
約三十五年前、この結城神父様著『長崎への道』(初版)に感動した私は、「京都から長崎まで歩いてみよう」と決心して、一人、二十六聖人の歴史と足跡を探求しつつ、四十九歳の早春、初めて京都一条の辻・第一番教会西陣教会に巡礼、以後そのまま長崎を目指して歩き続けました。約25日かけて、西坂に到着!それは、感動の涙、涙の巡礼でした。
この喜びと感動を一人でも多くの方々に伝えねば…との聖人方と約束した突き上げて来るものに追い立てられつつ、1982年8月残暑の中、初めて23人の方々をご案内したのが、長崎への道の最初の巡礼でした。この時、日本最初の修道会からの巡礼者として3人のシスター方も一緒に歩いて下さいました。
以後巡礼は続き、行きつ戻りつの4年3ヶ月を経て、「29回目巡礼、1986年11月23日朝6時、総勢130人の大巡礼団」と共に、西坂に到着、全員涙の祈りを捧げました。
その中に、広島から参加された70歳になる小川ハルエさんがおられました。巡礼中、いつも休憩の度に腹這いになって、ロザリオを熱心に祈っておられた。私が小川さんに、「申し訳ない!何時もなら、お家で、お孫さんのお相手で、平穏に過ごしておられるのに、こんな遠い所まで引っ張り出してしまい、こんな酷い目に会わせてしまって、お許し下さい」と言うと、「何の何の、ただただ、感謝ですよ!ありがとうございました」と。真っ赤なお顔でニッコリと微笑みながら、お答えになりました。
この時、私は巡礼団のリーダー先達として、この巡礼に大きな迷いがあり、いつも「何故、何故?これでいいのか?」との迷いに苛まれていました。小川さんのお言葉を聞いて、この瞬間、「そうだ!この感謝こそが殉教者が残して下さった巡礼の真髄なのだ」と教えられました。
小川さんは、この結願の数年後、この巡礼を殉教者への捧げものとして、天に召されました。喜び、悲しみ、疲れと多くの犠牲は、巡礼には避け難い困難ですが、やがてそれらが感謝の賜物と感じて下さるなら、これこそが二十六聖人が残して下さった神様への大きな捧げ物でしょう。この巡礼マップは、キリスト教徒のみならず、全世界の人々に残された二十六聖人殉教への大きな金字塔と思います。
百%、それ以上にご活用される事を祈って、お喜びの言葉とさせて頂きます。
2012年11月10日 アシジのフランシスコ本田記
出典:「日本二十六聖人 長崎への道」カトリック中央協議会発行より引用。